教授がホワイトボードの前に現れたのは、始業の時間を十五分も過ぎてからだった。
丁寧になでつけられていたはずの髪は乱れ、まくり上げたシャツの袖が片方落ちている。
「遅れて、すみません。さっそく、始めましょう。まずは、小テストから」
教授がホワイトボードの前に現れたのは、始業の時間を十五分も過ぎてからだった。
丁寧になでつけられていたはずの髪は乱れ、まくり上げたシャツの袖が片方落ちている。
「遅れて、すみません。さっそく、始めましょう。まずは、小テストから」
慌ててやってきた代償に肩で息をしながら、教授は手製のプリントを最前列に座る生徒に渡す。
翔太は前から回ってきた小テストに目を走らせ、ほっと安堵の息をついた。
慌ててやってきた代償に肩で息をしながら、教授は手製のプリントを最前列に座る生徒に渡す。
翔太は前から回ってきた小テストに目を走らせ、ほっと安堵の息をついた。
――今回も大丈夫そうだ。
六割を下回ると、単位取得が危ぶまれる。
翔太は満点こそ取ったためしがないものの、これまでボーダーを落としたことはなかった。
「では、はじめ」
教授の合図で学生たちは一斉にペンをとった。
――今回も大丈夫そうだ。
六割を下回ると、単位取得が危ぶまれる。
翔太は満点こそ取ったためしがないものの、これまでボーダーを落としたことはなかった。
「では、はじめ」
教授の合図で学生たちは一斉にペンをとった。
テストの時間は二十分間。
手持無沙汰なのだろうか。五分も経つと、問わず語りになんでもない話をし始めるのがその教授の癖だった。
多くの学生が大した注意を向けていない。
テストの時間は二十分間。
手持無沙汰なのだろうか。五分も経つと、問わず語りになんでもない話をし始めるのがその教授の癖だった。
多くの学生が大した注意を向けていない。
それどころか、思案の邪魔をするなと疎ましくさえ思っているかもしれない。
「……近頃はずいぶん、私たち教員がやることも増えましたよ」
しかし翔太は案外この時間が嫌いではなかった。
それどころか、思案の邪魔をするなと疎ましくさえ思っているかもしれない。
「……近頃はずいぶん、私たち教員がやることも増えましたよ」
しかし翔太は案外この時間が嫌いではなかった。
第一、テストの中身は前回の授業の単純な復習で、覚えているか否かだけを問われるものだ。
一通り回答を終えてしまえば、あとは考えをめぐらせるような箇所もない。
第一、テストの中身は前回の授業の単純な復習で、覚えているか否かだけを問われるものだ。
一通り回答を終えてしまえば、あとは考えをめぐらせるような箇所もない。
翔太は埋められなかった空白と回答できた欄の数を数え、六割を下回らないことを確認したあと、ペンを置いてラジオのように流れてくる教授の声に耳を傾けた。
「……ばたばたとして、ネイジツがない。それで今日も遅れてしまった。いや申し訳ない」
翔太は埋められなかった空白と回答できた欄の数を数え、六割を下回らないことを確認したあと、ペンを置いてラジオのように流れてくる教授の声に耳を傾けた。
「……ばたばたとして、ネイジツがない。それで今日も遅れてしまった。いや申し訳ない」
――〝ネイジツがない〟……?
耳に飛び込んできた聞き慣れない単語に、翔太はまどろみかけていた意識を取り戻す。
「ネイジツ、ネイジツ」と頭の中で繰り返すも、やはり彼の語彙には含まれていないらしく、漢字が思い浮かばない。
「……私が皆さんぐらいの頃は、日がなブリョウをカコッテいたものですが」
――〝ネイジツがない〟……?
耳に飛び込んできた聞き慣れない単語に、翔太はまどろみかけていた意識を取り戻す。
「ネイジツ、ネイジツ」と頭の中で繰り返すも、やはり彼の語彙には含まれていないらしく、漢字が思い浮かばない。
「……私が皆さんぐらいの頃は、日がなブリョウをカコッテいたものですが」
――〝ブリョウをカコッテ〟……?
翔太が考えこんでいるうちに、聞き覚えのない言葉が二つに増えた。
やはり意味も漢字もわからない。
翔太はいつもの癖でスマートフォンを取り出しかけたが、いまだ試験のさなかであることを思い出した。カンニングと疑われてはたまったものではない。
――〝ブリョウをカコッテ〟……?
翔太が考えこんでいるうちに、聞き覚えのない言葉が二つに増えた。
やはり意味も漢字もわからない。
翔太はいつもの癖でスマートフォンを取り出しかけたが、いまだ試験のさなかであることを思い出した。カンニングと疑われてはたまったものではない。
翔太はポケットに伸ばした手を止め、代わりに〝ネイジツ〟〝ブリョウをカコッテ〟とこっそり机にメモをした。
翔太はポケットに伸ばした手を止め、代わりに〝ネイジツ〟〝ブリョウをカコッテ〟とこっそり机にメモをした。
授業を終えた翔太は、荷物をまとめながらスマートフォンで先ほどの言葉を検索していた。
インターネットの検索エンジンは、次のような結果を表示する。
【寧日がない】穏やかで無事な日、安らかな日がないこと。
【無聊を託つ】することがなくて、たいくつな生活を嘆くこと。
授業を終えた翔太は、荷物をまとめながらスマートフォンで先ほどの言葉を検索していた。
インターネットの検索エンジンは、次のような結果を表示する。
【寧日がない】穏やかで無事な日、安らかな日がないこと。
【無聊を託つ】することがなくて、たいくつな生活を嘆くこと。
「ふうん……つまり先生は『毎日忙しくって気が休まらない。昔は暇でしょうがなかったのに』って話をしてたのか」
得心がいった翔太は、続けてスマートフォンを操作する。
「ふうん……つまり先生は『毎日忙しくって気が休まらない。昔は暇でしょうがなかったのに』って話をしてたのか」
得心がいった翔太は、続けてスマートフォンを操作する。
しかし彼の求めるような情報はなかなかヒットしなかった。
断片的にまとめられたウェブサイトは存在するものの、体系立てて紹介されているものは見つからない。
しかし彼の求めるような情報はなかなかヒットしなかった。
断片的にまとめられたウェブサイトは存在するものの、体系立てて紹介されているものは見つからない。
――ネットじゃダメなら、なにか、本か。
普段なら授業が終われば友人と合流し学生食堂にでもたむろするところだが、翔太が向かったのは学生向けの書籍を販売する構内書店だった。
――ネットじゃダメなら、なにか、本か。
普段なら授業が終われば友人と合流し学生食堂にでもたむろするところだが、翔太が向かったのは学生向けの書籍を販売する構内書店だった。
翔太の大学は、海外からの留学生も通っている。
留学生の日本語学習に役立つ書籍が多いことも、大学のキャンパスから近いこの店ならではの品揃えだ。
翔太の大学は、海外からの留学生も通っている。
留学生の日本語学習に役立つ書籍が多いことも、大学のキャンパスから近いこの店ならではの品揃えだ。
――ここなら何かしらあるだろう。
翔太はぶらぶらと適当な足取りで日本語の参考書が並ぶ棚の前をうろつく。
しかしたくさんの関連書籍の中から目当ての一冊を見つけ出すことは容易ではなかった。
――ここなら何かしらあるだろう。
翔太はぶらぶらと適当な足取りで日本語の参考書が並ぶ棚の前をうろつく。
しかしたくさんの関連書籍の中から目当ての一冊を見つけ出すことは容易ではなかった。
気になるタイトルの本を選んでは中身を確認して棚に戻す、という動作を繰り返しているうちに、参考書のコーナーはすっかり見終えてしまった。
「いや、なんもないんかい」
肩透かしを食らい、つい愚痴がこぼれる。
気になるタイトルの本を選んでは中身を確認して棚に戻す、という動作を繰り返しているうちに、参考書のコーナーはすっかり見終えてしまった。
「いや、なんもないんかい」
肩透かしを食らい、つい愚痴がこぼれる。
軽い失望を味わいながらも諦めきれずに店内をめぐっていると、ふと、翔太の目に辞典の棚が飛び込んできた。
最後の希望とばかりに彼は辞典の棚に張り付いて、商品を見まわした。
すると、棚の中腹、表紙が見えるように立てかけたディスプレイで、小さな辞典があった。
軽い失望を味わいながらも諦めきれずに店内をめぐっていると、ふと、翔太の目に辞典の棚が飛び込んできた。
最後の希望とばかりに彼は辞典の棚に張り付いて、商品を見まわした。
すると、棚の中腹、表紙が見えるように立てかけたディスプレイで、小さな辞典があった。
タイトルは『美しい日本語選び辞典』。
翔太はすぐさま手に取って、ページをめくる。
――これだよ!
『美しい日本語選び辞典』は、スマートフォンを一回り大きくしたようなサイズで、翔太の手の中にぴったりおさまった。
タイトルは『美しい日本語選び辞典』。
翔太はすぐさま手に取って、ページをめくる。
――これだよ!
『美しい日本語選び辞典』は、スマートフォンを一回り大きくしたようなサイズで、翔太の手の中にぴったりおさまった。
先ほど調べた〝寧日〟や〝無聊を託つ〟のように文学的で繊細な表現が、小さな辞典の中にこれでもかと詰め込まれている。
『美しい日本語選び辞典』は、まさに翔太の求める辞典だった。
彼はすぐさま会計を済ませると、その場で辞典を開いた。
先ほど調べた〝寧日〟や〝無聊を託つ〟のように文学的で繊細な表現が、小さな辞典の中にこれでもかと詰め込まれている。
『美しい日本語選び辞典』は、まさに翔太の求める辞典だった。
彼はすぐさま会計を済ませると、その場で辞典を開いた。
――この気持ち、なんて言えば良いんだろう。
まもなく、翔太の目が索引のある箇所で止まった。
――〝手の舞い足の踏む所を知らず〟
――この気持ち、なんて言えば良いんだろう。
まもなく、翔太の目が索引のある箇所で止まった。
――〝手の舞い足の踏む所を知らず〟
意味は『思わず踊り出してしまうほど、うれしがるさま。非常に喜んで有頂天になるようす。』
今、翔太が感じているよろこびを表すのには、ぴったりな表現であるように思えた。
意味は『思わず踊り出してしまうほど、うれしがるさま。非常に喜んで有頂天になるようす。』
今、翔太が感じているよろこびを表すのには、ぴったりな表現であるように思えた。
――なんか、勉強ってちょっと楽しい、かも。
次の小テストはもっと頑張ってみるのも悪くないと、翔太は感じた。
――なんか、勉強ってちょっと楽しい、かも。
次の小テストはもっと頑張ってみるのも悪くないと、翔太は感じた。