言語化
言語化とは…?
感情や感覚、直感的なイメージを言葉にし、伝えること。
自分の思い・考えを、相手に伝達するための手段であり、自身が理解されるために必要なこと。
自分のイメージや思考を、言葉にするため、
そして他者により正確に伝えるためには、相応の語彙力が必要となる。
どんなに豊かな感情や、深い思案があったとしても、
自分の語彙の範囲でしか言葉にすることはできない。
『古今東西』は、言語化という課題と常に共にあるコラムニストの感情と思考を読み解くことで、
まずは、思いをことばやかたちにする、すなわち言語化することの大切さを学ぶコーナーである。
つた-える【伝える】《他下一》
❶そのものが媒体となって、他のものに移す。
「金属はよく電流をー・える」「作者の意図を読者にー・える」❷ことばで知らせる。「出発の日時をー・える」「ニュースをー・える」❸仲立ちをとおして告げ知らせる。伝言する。「彼には君からー・えてくれ」類語 言付ける。❹先人からことばを受けついで今に残す。言い伝える。「沼に竜がすむとー・える」❺代々受けついできて、あとの者に・残す(教え授ける)。「昔の情緒を今にー・える町」❻〔ある物・物事を〕よそからもってきて、そこに届かせる。もたらす。「海外から新技術をー・える」
『学研 現代新国語辞典 改訂第六版』(2020)株式会社 学研プラス
高橋 秀作 Shusaku Takahashi
SerenadeTimes大人気小説『夜枕の絵本』著者であり、元週刊誌記者。
現役記者時代、事件担当記者として数々の現場を歩き、
多くの有名事件を取り上げ、世に排出した敏腕記者として名高い。
小説家に転身後、処女作である『夜枕の絵本』が
「独自の世界観に引き込まれる」と、話題をさらっている。
「そのネタ、ブツ(物的証拠)はあるのか?」
週刊誌の現場に⾝を置く中で「伝える」という作業の奥深さを嫌というほど味わった。
思い起こせば、私たちの仕事は「伝える」
ことの連続だった。第⼀に、週刊誌の世界では、企画会議にネタを通さないと取材⾃体がスタートしない。そのため、記者たちはあの⼿この⼿で企画会議を通そうとする。
会議では、こんな会話が繰り広げられる。
デスク(※1)「そのネタ、ブツ(物的証拠)はあるのか?」
記者「もちろん全部揃ってますよ」
デスク「告発記事でイケるのか?」
記者「ネタ元を確実に説得しますよ」
※1 新聞社などの編集・整理の責任者
⼤⾵呂敷を広げることが⼤事なのだ。
決して「出来ません」とは⾔わない。
レストランの絶品料理のように「これは美味しそうだ」と思わせたら伝わったということ。
その上で「なぜ、いまのタイミングでこのネタを取り上げるべきなのか」をコンコンと説明するのだ。
例えば、あまり知名度のないA社の不祥事を取り上げようという場合。
「A 社は⼤⼿放送局の番組でも取り上げられて、話題を呼びました。⾼視聴率だったし、世間はこの記事を望んでいるはずです。しかも、同社社⻑は某党⾸夫⼈とも親しく――」
⽬の前のデスクにネタの重要性を伝えることが出来なければ、多くの読者に共感できる記事など書けやしない。今まで何度も話してきたが、週刊誌が描くのはひたすら〝⼈〟だ。
そのため、会話の間合いや雰囲気を克明に書くことが醍醐味である。週刊誌における良い⽂章は、縦(⼈物像の深み)、横(時系列の流れ)が交差し、無限の奥⾏きを持って⽴体的な映像として⼊ってくる。
時に重要なのは、⾔語化できない〝間〟だ。
無⾔のときの⽬の動き。
そして、⼿の動き。
それらの動作は⼝ほどに物を⾔う。
⾏列が出来る店主こだわりのラーメン屋なのか、あるいはチェーン店の400円台の醤油ラーメンなのか。⼀⽷乱れぬ髪型で背筋を伸ばし、割り箸を上下に割っていたのか。あるいは、時折ゲップをしながらクチャクチャと⼝を動かしていたのか。だが、「伝える」という作業の現実は、なかなか難しい。伝え⽅のプロが集まる週刊誌の現場でも、⼈によって⽂章技術は千差万別。まったく異なった伝わり⽅をしてしまうケースがあることも事実なのだ。⾔葉選びはピアノの鍵盤を叩く作業に似ている。メロディ(⽂脈)の中に適切な⾳(⾔葉)を⼊れていく作業だ。メロディに合わない⾳を叩いた瞬間、全体の旋律は乱れ、不協和⾳を醸し出す。歌が上⼿な⼈は狙った⾳階に迷わず、スーッと⼊っていく。それと同様、適切な⾔葉選びは⼼に染み⼊り、感情の襞を揺さぶり続ける。今まで「伝える」という作業について縷々述べてきたが、週刊誌に対して「⼈の不幸を取り上げて、何を偉そうに」という意⾒があるのも事実だ。「偉そうに」伝わっているとすれば、書き⼿の伝える能⼒が不⾜しているのだ。当時、私は記事を書くとき、⼈間模様を書くことに集中した。普段、善⼈でクリーンなイメージのある清純派アイドルが不倫に⾛るとき。その意外な素顔を「⾺⿅じゃねえの」という気持ちで取り上げるのではなく、むしろ微笑ましく捉える。「アイドルだって不倫もするし、⼤便もするし」と。その記事を受け、「このふしだらな⼥め」と攻撃を仕掛けるのは、実は⼀部の熱狂的な信者だったりするのだ。「公益性がない」「公共性がない」と⾔われれば、その通りかもしれない。たしかに、週刊誌はそんな崇⾼な理念など持ち合わせていない。〝業の肯定〟といっては格好良すぎるが、⼈間の⾯⽩さを知りたいという気持ちはなくならない。そして、それを伝える〝週刊誌的なもの〟も同様、この世の中からなくならないのである。
⾔葉選びはピアノの鍵盤を叩く作業に似ている。
現役時代、政治家に取材をする機会が多くあったが、彼らは息を吸うように嘘を付いたり、トボけたりすることが出来る⾯⽩い⼈種だった。ある古参政治家に⾃⾝の⾝に降り掛かったスキャンダルについて直撃したとき、彼は⼤仰に⾝振り⼿振りを交え、「そんなこと書いたら誤報になっちゃうよ。そんなのない、ない」と半笑いで宣った。だが、その翌朝、全国紙朝刊に登場した古参政治家はスキャンダルの事実を認め、役職をみずから退いたのだ。私はそうした経験を通じ、政治家を取材するときのメモのとり⽅を学んだ。注意深く観察し、〝⾔葉にならない⾔葉〟の真実性を⾒極めるのだ。それこそ、⾔質を取られることを良しとしない永⽥町の住⺠たちの独特の「伝え⽅」だった。余談だが、警察官は嘘をつくのが苦⼿だ。例えば、警察幹部に事件の発⽣について尋ねたとしよう。「芸能⼈Aの⾃宅にガサ⼊れがありましたよね。罪名は覚せい剤取締法違反ですか?」「それを俺に聞いてこないでよ」⼀般的には⽣産性のない会話に思えるかもしれないが、私の感覚では「否定はしていない」。つまり刑事は「肯定している」のだ。「今から⾔うことは独り⾔だよ」と⾔いながら後ろを向き、ボソボソと被疑者の住所や親族関係などをレクチャーしてくれる刑事もいた。あくまで「俺が伝えたわけじゃないからな」という体裁を取りながら。私はそんな刑事が好きだった。政治家と付き合うよりも性に合っていた。こうして職務上の危険を犯してまで事実を教えてくれたネタ元に対しては、徹底的に守ろうと思うのが記者としての⼈情だ。⼊⼿し、ファクトを「伝える」という仕事は、そうした地道な〝勘取り〟の繰り返しだ。⼀⽅で「神は細部に宿る」と⾔われる。⼤局を⾒ながらも現場のディティールにこだわるのが週刊誌の⼿法だ。例えば、国⺠的⼈気のアイドルがラーメン屋で⾷事をしていたことを報じるとしよう。その伝え⽅⼀つで印象はガラリと変わる。