群馬県下仁田トンネルの入口に差し掛かると、心臓の鼓動が早くなった。バックミラーに映る峠が小さく霞んでいく。
拓海はアクセルを踏み込むと、赤煉瓦が積まれたトンネルの土台に目を凝らした。ハイビームで照らされた天井のコンクリートは、まるで積み重なった人の群れのように見える。
群馬県下仁田トンネルの入口に差し掛かると、心臓の鼓動が早くなった。バックミラーに映る峠が小さく霞んでいく。
拓海はアクセルを踏み込むと、赤煉瓦が積まれたトンネルの土台に目を凝らした。ハイビームで照らされた天井のコンクリートは、まるで積み重なった人の群れのように見える。
忽ち車内の温度が下がり、背骨に冷たい汗が伝った。こんなにも百メートルが長いものか。トンネルを抜け、ゴミ処理場に車を停めると、拓海は獣道を駆け上がった。
忽ち車内の温度が下がり、背骨に冷たい汗が伝った。こんなにも百メートルが長いものか。トンネルを抜け、ゴミ処理場に車を停めると、拓海は獣道を駆け上がった。
廃墟マニアである拓海がこの場所を初めて訪れたのは、約3ヵ月前の春先のことである。都心から二時間半の秘境で拓海が目指したのは、一軒の山小屋だった。いつ、誰が、どのように棲息していたのか。あたりを散策し、かつての生活者の息づかいに触れたとき、過去と現在を繋ぐ無限の物語の入口が広がる。廃墟巡りの趣味はやがて生業になり、撮り貯めた写真を収めた自費出版の写真集は十冊を超えた。
廃墟マニアである拓海がこの場所を初めて訪れたのは、約3ヵ月前の春先のことである。都心から二時間半の秘境で拓海が目指したのは、一軒の山小屋だった。いつ、誰が、どのように棲息していたのか。あたりを散策し、かつての生活者の息づかいに触れたとき、過去と現在を繋ぐ無限の物語の入口が広がる。廃墟巡りの趣味はやがて生業になり、撮り貯めた写真を収めた自費出版の写真集は十冊を超えた。
この山小屋は他の廃墟とは決定的に趣を異にしていた。破れた窓から日光が差し込み、夥しい数の〝言葉〟を浮き上がらせる。床には鋭利に切り取られた新聞や雑誌が足の踏み場もないほど敷き詰められていた。
この山小屋は他の廃墟とは決定的に趣を異にしていた。破れた窓から日光が差し込み、夥しい数の〝言葉〟を浮き上がらせる。床には鋭利に切り取られた新聞や雑誌が足の踏み場もないほど敷き詰められていた。
「愛惜」「齷齪」「胡乱」「蓋世」――。
新聞や雑誌の記事の見出しなのか、雑に切り抜かれた熟語が壁に貼り付けられている。不思議なことに、それらは尽く難読漢字だった。翌週末、また拓海は山小屋を訪れた。そして、その翌週末も――。
「愛惜」「齷齪」「胡乱」「蓋世」――。
新聞や雑誌の記事の見出しなのか、雑に切り抜かれた熟語が壁に貼り付けられている。不思議なことに、それらは尽く難読漢字だった。翌週末、また拓海は山小屋を訪れた。そして、その翌週末も――。
拓海は次第に〝言葉〟が増えていることに気付いた。破れた窓と飛び散った破片は廃墟を廃墟たらしめるのに充分だったが、この山小屋には〝今〟の息吹を感じる。
この小屋には、誰かが、いる――。
拓海は次第に〝言葉〟が増えていることに気付いた。破れた窓と飛び散った破片は廃墟を廃墟たらしめるのに充分だったが、この山小屋には〝今〟の息吹を感じる。
この小屋には、誰かが、いる――。
ある日、拓海は壁に貼られた「益荒男」という文字を窓から眺めた。先日、書店で購入した「難読漢字選び辞典」のページを捲ってみた。
「益荒男」――勇ましく強い男子
その日以降、拓海は〝彼〟を益荒男と名付けた。
ある日、拓海は壁に貼られた「益荒男」という文字を窓から眺めた。先日、書店で購入した「難読漢字選び辞典」のページを捲ってみた。
「益荒男」――勇ましく強い男子
その日以降、拓海は〝彼〟を益荒男と名付けた。
その日を境に拓海の心に背徳のような感情が芽生えた。日々〝言葉〟を紡ぎ出す益荒男の姿をこの目で確かめたい。そして、対面した暁には、彼と会話を交わしたい。
ある晩、拓海は山小屋に向かう道中に車を停め、車内で一夜を過ごした。下仁田トンネルは地元の住民すらめったに通ることはない。夕方7時を過ぎると、あたりは暗闇に支配される。携帯電話を開くと、より一層暗がりが浮かび上がり、拓海は身震いした。
その日を境に拓海の心に背徳のような感情が芽生えた。日々〝言葉〟を紡ぎ出す益荒男の姿をこの目で確かめたい。そして、対面した暁には、彼と会話を交わしたい。
ある晩、拓海は山小屋に向かう道中に車を停め、車内で一夜を過ごした。下仁田トンネルは地元の住民すらめったに通ることはない。夕方7時を過ぎると、あたりは暗闇に支配される。携帯電話を開くと、より一層暗がりが浮かび上がり、拓海は身震いした。
それから数時間後、拓海は微睡みから戻ると、どこから現れたのか、獣道を前傾姿勢で歩む華奢な老人の姿があった。拓海は息を潜めて後を追ったが、益荒男はまるで拓海を誘導するように悠然と歩み続けた。彼は小屋の中に入ると、床に散らばった新聞や雑誌を手に取り、思考の海に潜るように目を閉じた。
それから数時間後、拓海は微睡みから戻ると、どこから現れたのか、獣道を前傾姿勢で歩む華奢な老人の姿があった。拓海は息を潜めて後を追ったが、益荒男はまるで拓海を誘導するように悠然と歩み続けた。彼は小屋の中に入ると、床に散らばった新聞や雑誌を手に取り、思考の海に潜るように目を閉じた。
拓海が益荒男の正体を知ったのは、偶然の成り行きだった。かつて廃墟の写真を投稿した月刊文芸誌を捲ったところ、書斎で寛ぐ益荒男の写真が見開きで掲載されていたのだ。
ミステリー作家・鴻池小太郎――。
拓海が益荒男の正体を知ったのは、偶然の成り行きだった。かつて廃墟の写真を投稿した月刊文芸誌を捲ったところ、書斎で寛ぐ益荒男の写真が見開きで掲載されていたのだ。
ミステリー作家・鴻池小太郎――。
それから拓海は鴻池の著作を貪るように読み漁った。その作品は至る所に難読漢字が散りばめられていたが、それはどれも謎を解き明かすキーワードだった。拓海はそのたびに「難読漢字選び辞典」を手に取った。
それから拓海は鴻池の著作を貪るように読み漁った。その作品は至る所に難読漢字が散りばめられていたが、それはどれも謎を解き明かすキーワードだった。拓海はそのたびに「難読漢字選び辞典」を手に取った。
「糟粕」――酒かす。また、不要物
「塵芥」――ちりあくた、ごみ
「渣滓」――のこりかす
「糟粕」――酒かす。また、不要物
「塵芥」――ちりあくた、ごみ
「渣滓」――のこりかす
壁に記された熟語を入念に辿ると、彼の本のテーマが朧気に表出し、そして一つの物語が浮かび上がってくる。益荒男にとって山小屋は作品作りの工房だったのだろう。
壁に記された熟語を入念に辿ると、彼の本のテーマが朧気に表出し、そして一つの物語が浮かび上がってくる。益荒男にとって山小屋は作品作りの工房だったのだろう。
拓海は作品の〝解〟を求めるように山小屋を訪れたが、ある日を境に鴻池は拓海の前から忽然と姿を消した――。
あくる日もあくる日も拓海は山小屋に足を運んだ。だが、主を失った山小屋は荒廃するばかりだった。
拓海は作品の〝解〟を求めるように山小屋を訪れたが、ある日を境に鴻池は拓海の前から忽然と姿を消した――。
あくる日もあくる日も拓海は山小屋に足を運んだ。だが、主を失った山小屋は荒廃するばかりだった。
拓海はふたたび「難読漢字選び辞典」を開き、益荒男に向けてメッセージを発することにした。
「嚆矢」――物事の始め
「蹌踉」――よろめくさま
「彫琢」――文章を練ること
「凌雲」――俗世を超越していること
拓海はふたたび「難読漢字選び辞典」を開き、益荒男に向けてメッセージを発することにした。
「嚆矢」――物事の始め
「蹌踉」――よろめくさま
「彫琢」――文章を練ること
「凌雲」――俗世を超越していること
四つの熟語を抽出し、壁にそれらを貼り付けたとき、背後から人の気配がした。拓海はそっと辞典を閉じ、これからも彼との対話が続いていくことを確信した。
四つの熟語を抽出し、壁にそれらを貼り付けたとき、背後から人の気配がした。拓海はそっと辞典を閉じ、これからも彼との対話が続いていくことを確信した。