椅子に背中を預け、裕子は大きなため息をついた。
『主任、ここ〝窺う〟じゃなくて、〝伺う〟じゃないですか?』
昼間の部下の指摘を思い返す。なんのことはない、些細な変換ミスだ。
しかし取引先へのメールとなれば「凡ミスでした」では済まないこともある。
椅子に背中を預け、裕子は大きなため息をついた。
『主任、ここ〝窺う〟じゃなくて、〝伺う〟じゃないですか?』
昼間の部下の指摘を思い返す。なんのことはない、些細な変換ミスだ。
しかし取引先へのメールとなれば「凡ミスでした」では済まないこともある。
細かいミスもケアするのが、主任たる裕子の役割のはずだった。
「部下に指摘されてるようじゃダメね……」
結果としてミスのない仕事ができたと思えば、業務上の問題はない。
けれど、裕子のささやかなプライドは、そのままやり過ごすことを是としなかった。
細かいミスもケアするのが、主任たる裕子の役割のはずだった。
「部下に指摘されてるようじゃダメね……」
結果としてミスのない仕事ができたと思えば、業務上の問題はない。
けれど、裕子のささやかなプライドは、そのままやり過ごすことを是としなかった。
だから彼女は帰り道に書店へ飛び込み、とある本を手に入れた。
『漢字の使い分け辞典』と題されたそれは、まさに今日の裕子のためにあるような辞典だ。
まだ書店の袋に入ったままのそれを取り出し、ぱらぱらとページに目を通してみる。
「へえ……〝配布〟と〝配付〟……ふふ」
裕子の口元に笑みが浮かぶ。
ことさらに辞典の内容がおかしかったわけではない。
だから彼女は帰り道に書店へ飛び込み、とある本を手に入れた。
『漢字の使い分け辞典』と題されたそれは、まさに今日の裕子のためにあるような辞典だ。
まだ書店の袋に入ったままのそれを取り出し、ぱらぱらとページに目を通してみる。
「へえ……〝配布〟と〝配付〟……ふふ」
裕子の口元に笑みが浮かぶ。
ことさらに辞典の内容がおかしかったわけではない。
――昔もこんなことあったっけ…。
裕子は、もう二十年以上も前、まだ自分が小学生だったころを思い出していた。
初めて書いたラブレター。
精一杯気持ちを伝えようと背伸びをして書いたその恋文は、間違いだらけだった。
――昔もこんなことあったっけ…。
裕子は、もう二十年以上も前、まだ自分が小学生だったころを思い出していた。
初めて書いたラブレター。
精一杯気持ちを伝えようと背伸びをして書いたその恋文は、間違いだらけだった。
大介くんへ
とつ然こんな手紙書いてごめんなさい。
びっくりさせちゃったかな?
大介くんがサッカーしてるところ、いつも視てます。
大介くんへ
とつ然こんな手紙書いてごめんなさい。
びっくりさせちゃったかな?
大介くんがサッカーしてるところ、いつも視てます。
四年生になってクラスが同じになって、はじめは面白い人だな~って思うくらいだったんだけど、勉強ができるしスポーツしてるところもカッコいいし、いつの間にか大介くんのすがたをいつも捜しちゃってることに気づきました。
それに、大介くんは覚えてないかもしれないけど、私が落としたハンカチ拾ってくれた時、顔が急に近づいてドキッと、しちゃいました。
四年生になってクラスが同じになって、はじめは面白い人だな~って思うくらいだったんだけど、勉強ができるしスポーツしてるところもカッコいいし、いつの間にか大介くんのすがたをいつも捜しちゃってることに気づきました。
それに、大介くんは覚えてないかもしれないけど、私が落としたハンカチ拾ってくれた時、顔が急に近づいてドキッと、しちゃいました。
 
元気で明るくて易しくて、みんなを笑顔にするあなたが大好きです。
私は全然かわいくないけど、大介くんを好きな気持ちはだれにも負けないつもり!!
だから、私をあなたの変人にしてくれませんか?
 
元気で明るくて易しくて、みんなを笑顔にするあなたが大好きです。
私は全然かわいくないけど、大介くんを好きな気持ちはだれにも負けないつもり!!
だから、私をあなたの変人にしてくれませんか?
 
P.S.
私の想いが通じたら本当にうれしいです。
お返事待ってます。
裕子より
 
P.S.
私の想いが通じたら本当にうれしいです。
お返事待ってます。
裕子より
今でも恋文の文面ははっきりと裕子の脳裏に浮かび、彼女を赤面させる。
しかし結局この恋文は、大介の手に渡ることはなかった。
大介に渡す前に友人に内容を見てもらったところ、多くの漢字の誤りを指摘されたのだ。
たしかこんなことを言われたんだっけ、と裕子は友人の言葉を思い返した。
今でも恋文の文面ははっきりと裕子の脳裏に浮かび、彼女を赤面させる。
しかし結局この恋文は、大介の手に渡ることはなかった。
大介に渡す前に友人に内容を見てもらったところ、多くの漢字の誤りを指摘されたのだ。
たしかこんなことを言われたんだっけ、と裕子は友人の言葉を思い返した。
裕子ちゃん、これじゃ大介くん、怖いと思うよ。
「いつも視てます」「捜しちゃってる」ってなんか念能力者ストーカーっぽいし。
「いつも見てます」「探しちゃってる」でいいんじゃない?
裕子ちゃん、これじゃ大介くん、怖いと思うよ。
「いつも視てます」「捜しちゃってる」ってなんか念能力者ストーカーっぽいし。
「いつも見てます」「探しちゃってる」でいいんじゃない?
あと「易しくて」は「優しくて」だよね。簡単に付き合えると思ってるみたいになってる。
一番ひどいのはこれね、「あなたの変人にしてくれませんか」。
変人になってどうするのよ。「恋人」でしょ?
あと「易しくて」は「優しくて」だよね。簡単に付き合えると思ってるみたいになってる。
一番ひどいのはこれね、「あなたの変人にしてくれませんか」。
変人になってどうするのよ。「恋人」でしょ?
自信を持って書いた裕子にとっては、顔から火が出るほど恥ずかしい思い出だ。
あまりにショックで、書き直しもせず引き出しの奥に突っ込んでしまった記憶がある。
自信を持って書いた裕子にとっては、顔から火が出るほど恥ずかしい思い出だ。
あまりにショックで、書き直しもせず引き出しの奥に突っ込んでしまった記憶がある。
今では手紙で思いを伝える機会など無きに等しい。
より難解な漢字を使えば頭がよく見えて付き合ってもらえるかも、などと浅はかな考えで辞典を片手に手紙を書いていた時代を、裕子はふと懐かしむ。
考えは浅はかでも、努力は惜しんでいなかった。
今では手紙で思いを伝える機会など無きに等しい。
より難解な漢字を使えば頭がよく見えて付き合ってもらえるかも、などと浅はかな考えで辞典を片手に手紙を書いていた時代を、裕子はふと懐かしむ。
考えは浅はかでも、努力は惜しんでいなかった。
――仕事も、あのくらい頑張らなくちゃ。
裕子は気を取り直し、過去の思い出から現実へと意識を引き戻す。
明日こそはミスなく仕事を終わらせてやると意気込み、『漢字の使い分け辞典』を鞄へ入れた。
――仕事も、あのくらい頑張らなくちゃ。
裕子は気を取り直し、過去の思い出から現実へと意識を引き戻す。
明日こそはミスなく仕事を終わらせてやると意気込み、『漢字の使い分け辞典』を鞄へ入れた。